2015年7月20日月曜日

4.徒然なるままに

「日常的」

 太宰治の『斜陽』は、主人公の母の小さな悲鳴からはじまる。破産寸前の元華族、お金なんて全然ない。そんな状態でも主人公の母は以前と変わらず高貴な振る舞いをし続ける。それがなんとも胸に刺さる描写で、行動における現実(目に見える)と貧しい生活という現実(空気感)の不一致さが表裏一体となってグサァ。
 でもなんとなく母の気持ちが理解できます。ギリギリの追い込まれた生活で、自分を支えるものとしての高貴な振る舞い。それが母に残された自分を保つ最後の持ち札だったのかもなあ(まあ主人公の虚しさを引き立てるための立役者で母自体は習慣的なだけであったという面の方が強いと思うけど)。

 最近、ライフスタイル誌が山のように発行されてる。『kinfolk』やそれに追従した日本の雑誌。生活さえも流行という欲望の一部になったかと思うと少しゾッとする。もはや『ライフスタイル』という言葉自体がオシャレにブランディングされている。でも、それが流行るのって、みんなどこかで高貴な自分を保っていたいのかなって思ったり。
 たとえばこれは高貴ではない生活。朝11時に起きて、ベッドから抜け出し(ベッドの上は布団がぐちゃぐちゃ)電子レンジでチンしたご飯を食べ、ツイッターを見る。部屋の中はペットボトルのゴミが点在し、コードでぐちゃぐちゃしている。これじゃあ、なんだかプライドもクソもなさそうだ。
 これは日常的高貴さをまとった感じの生活。朝7時に起きたらまず、カーテンを開けて朝日を浴びる。ベッドを整え、コットンのTシャツを着てトーストを焼いてコーヒーを淹れる。昨日買った花を生けた花瓶の水を替えて、テーブルに置き、それを眺めながらトーストをかじる。こ、これは…村上春樹の小説の朝…。ライフスタイル誌って…村上春樹のシティボーイ的な生活のこと…?


 世界は不安定で、漠然とした絶望感みたいのが空気の成分に溶け込んでる現代。成長するとこは成長しきって、あとはどうするんだろう、これ以上なにかできるんだろうか、私たち若者はなんとなく頭打ちされたような感覚。そんな時、何を信じて生きればいんだろう、何か自分の支えになる「確かなプライド」みたいなものが必要だったのかもしれない、表面的にプライドとして浮かび上がっていなくとも。

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