2015年12月9日水曜日

trainspotting

なんでこんな好きかなあ。腐るとどうしてもみたくなるよ、『トレインスポッティング』。ユアン・マクレガーのかっこよさったらありゃしない。なぜ、彼は、クラブに行っても残るのだ。わたしだったら最初に飛びつくよ。

腐ってる。ほんと腐ってる、ゼミを辞めると言いにいけずに、気づいたら夜21時まで爆睡。大学なんてもう3週間くらいまともに行ってない。そう、ニートになる。毎晩危機感でネットで「ニート 生活」とか検索して2ちゃんねる読んで昼夜逆転とか、なんだいなんだい、地獄に自らのお尻を蹴ってまで堕ちたいのかしら。
・他人に興味が湧かない
・人生がクソだと思う
・人生がクソだと思う
・人生がクソだと思う
これくらいニートになりそう。だれがこんなんになりたいと思ったんだかよくわかんないけど、わたしは幸せになれないのか。人生がクソ。わたしの人生に対する姿勢がクソ。

はあ、わたしもシャブ厨になって人生いっちょ破滅させてくるか?

2015年12月7日月曜日

極度の恋愛音痴

わたし、すっごい恋愛音痴。「モテるでしょ」「かわいいもんね」などと大学入って言われ続けているが、ここんとこ半年カレピッピなるものがいない。あげられる原因、ひとつにわたしの鈍感さと疑り深さと根からのビビりというのが大きいというか、もうこれが全て。
飲み会で抱きつかれて後日ふたりで遊びに行っても、脈あるのかわからない。手にLOVEと書かれてもわからない。壁ドンされてもわからない。…脈ってなんですか…?脈が触れたことを確認できないんですが。というかみなさん、外国人のように耳元で愛を語ってよそしたら分かるから。小賢しくワザを使うなって、勝率計算すんなって、真っ向勝負で来られないと感度が弱いセンサーにはなにも引っかからないんだって!
…というわたしも一度素敵!素晴らしい!好き!ってなった人を眺めて終わった。ああ…インテリジェントなカレ…。ありとあらゆる手でネットをくまなく捜索するも無念。何回か話して、飲みに行きましょうね!という架空の約束をして、そして分解して全てが終わった。あなたシャイニー、わたしシャイ。わたしもシャイニーしたかった。
アーカレピッピがほしい。カレピッピに抱きしめられたい、それだけで生きる気力が湧くだろう、勇気が湧くだろう、あわよくば起業するだろう。いや、将来の安定がほしい。誰でもいーわけじゃないの、そうよ!あんた!あんたがほしいの(架空)!

ファックスエブリワン

冬だし冬だなあと思う。そしてわたしはわたしであることを誰かに謝らなきゃいけない気分になる。ワインのプールを泳いだら、酔ってることに気づけないみたいに、もしかしたら生まれてこのかた酔ってる(自分に)ことに気づけないザンネンな部類の人間なのかもしれない、ワタシ。
1年弱続けたゼミを辞める。世界にとっちゃどうでもよくて、ほとんどの人は気にもかけてないことだと思う、し自分にもそう言い聞かせるのだけれど、変な自意識が働いてビビりにビビって先生に辞めますと口で言えない。いや、あした言うぞ。あした言わないと、またゼミの時間がやってくる。ゲリラ的に道で待ち構えて、精神壊したほぼ治ったけどもう無理ですごめんなさいと。このゼミで得たことはきっとそこそこ大きいけれど、代償として、デザインがこわい病になった。デザインどうでもいい距離置きたいファッションこわい服どうでもいい病。なんと弱い。意思のないクソ野郎だと罵られて、わたしはあした大学の芝生の上を転がり落ちるのであろう。不敵な笑みを浮かべて、そうそれは自由の象徴、いや諦めの象徴なのかしらん。自分がクソ人間であることはもうここのところ感じ続けていて、もはや飽きそうだ。どーでもいい。そうわたしは魚の小骨の一本。取り除こうが、取り除かまいが、食べたってほとんどなにも支障はきたさないからな。はは、そういう人生よね(もうすぐ21歳になります)

2015年10月31日土曜日

4.徒然なるままに

ゆっくりと創造的であることは不可能なんだろうか?
…いま、大学のゼミは死ぬほど忙しい。わたしは、暇がないと考えられない。暇がないから頭が全然回らない。知っている、このようなことは社会では許されないだろう。ゆっくりと創造的であることはおそらく仕事の世界では許されない。そしてゼミの世界においても。あーあ。問題はたくさん出るのに答えはいつも出ない。世界を無駄にしているなあ。


映画を見た。『ゼロの定理』なる上滑り映画なのだけれど。ゼロは無意味じゃない、ゼロは混沌である。混沌は整えると金になる。たしかに。あーあ。

2015年7月20日月曜日

4.徒然なるままに

「日常的」

 太宰治の『斜陽』は、主人公の母の小さな悲鳴からはじまる。破産寸前の元華族、お金なんて全然ない。そんな状態でも主人公の母は以前と変わらず高貴な振る舞いをし続ける。それがなんとも胸に刺さる描写で、行動における現実(目に見える)と貧しい生活という現実(空気感)の不一致さが表裏一体となってグサァ。
 でもなんとなく母の気持ちが理解できます。ギリギリの追い込まれた生活で、自分を支えるものとしての高貴な振る舞い。それが母に残された自分を保つ最後の持ち札だったのかもなあ(まあ主人公の虚しさを引き立てるための立役者で母自体は習慣的なだけであったという面の方が強いと思うけど)。

 最近、ライフスタイル誌が山のように発行されてる。『kinfolk』やそれに追従した日本の雑誌。生活さえも流行という欲望の一部になったかと思うと少しゾッとする。もはや『ライフスタイル』という言葉自体がオシャレにブランディングされている。でも、それが流行るのって、みんなどこかで高貴な自分を保っていたいのかなって思ったり。
 たとえばこれは高貴ではない生活。朝11時に起きて、ベッドから抜け出し(ベッドの上は布団がぐちゃぐちゃ)電子レンジでチンしたご飯を食べ、ツイッターを見る。部屋の中はペットボトルのゴミが点在し、コードでぐちゃぐちゃしている。これじゃあ、なんだかプライドもクソもなさそうだ。
 これは日常的高貴さをまとった感じの生活。朝7時に起きたらまず、カーテンを開けて朝日を浴びる。ベッドを整え、コットンのTシャツを着てトーストを焼いてコーヒーを淹れる。昨日買った花を生けた花瓶の水を替えて、テーブルに置き、それを眺めながらトーストをかじる。こ、これは…村上春樹の小説の朝…。ライフスタイル誌って…村上春樹のシティボーイ的な生活のこと…?


 世界は不安定で、漠然とした絶望感みたいのが空気の成分に溶け込んでる現代。成長するとこは成長しきって、あとはどうするんだろう、これ以上なにかできるんだろうか、私たち若者はなんとなく頭打ちされたような感覚。そんな時、何を信じて生きればいんだろう、何か自分の支えになる「確かなプライド」みたいなものが必要だったのかもしれない、表面的にプライドとして浮かび上がっていなくとも。

2015年7月18日土曜日

3.思考

 自分の築きあげてきた世界を保つことはだいじだなあ。

 最近はめっきり忙しく、常に制作のことで頭を抱えている。研究会も和気あいあいというよりは矛先のような尖った緊張感が常にあって、ストレスがもう止めどなくそれはまるでナイアガラの滝のようにドバドバしている。最近は立ち上がることのできないジョーのような状態。寝ても寝ても寝足りず、たくさん寝てしまうわたしは今日も授業に出られず、ああ単位…。
 このほかにもたくさん異常なことが起こっていて、もうヘトヘトなわたしは、ストレス発散法というものをネットでググった。neverまとめの「ストレス発散法50個紹介」というページを見つけ、疲れ切った目でスクロールしていた。ピアスを開ける、とか過去にわたしが少しやったことのあるものもいくつか。その中で、「ブログを書く」というのを見つけて、あ!これだ!、と思った次第であるのです。

 ブログを書く、というのはツイッタとかインスタよりもどちらかといえば、プライベートな日記を世間に公開する、という感じ。なんというか、「語れる」のだよ。でも、ツイッタやインスタは即時的で、川(タイムライン)に草で作った小舟(ツイート)を流したらすぐに流れて見えなくなってしまうさらにツイッターには、明示されてないけど「属性」みたいのがあって、自分がつぶやく「べき」ことなんかもなんとなく自明で、属性色がついた川に小舟を流すというのはなんだが意外に変に気を使ったりする。ブログを書くというのは、属性など気にせず、自分の世界を淡々と積み上げるというかんじがするんだな〜。ブログは、「部屋」ってかんじ。
 最近わたしは、「部屋」的なものがどこにもなかった。困った。わたしが、腹割って本音を言える相手も場所もなんだかなくなっていた。人の顔色を伺ってばかりいて、最近は自分の意見というものがどっかへとんでいってしまったかんじなのだ。だから、いま、ブログを書こうと久しぶりに思いついた。それは誰のためでもなく、単純に自分が「自分の世界を保つ」というだけのため。わたしはわたしの精神をまともに保つためにブログを書いているのだ!

 たくさんな異常のなかに、しゃべることが困難になったというのがある。これは、人の顔色伺いすぎたせいで何言っていいのかわからない・馬鹿にされている気がして口から言葉を出せない、というような異常。いままではかなり雄弁な方で、舞台に立つと緊張していてもまるで空から自分を俯瞰しているかのような感覚でスラスラと話すことができた。だがもう困った、真反対。今度は自分の内側がぐーっとより内側に引っ張られるような感覚で口が開かなくなる。
 「ブログを書く」というのは、伝える相手がいなくともまたは見えなくとも、その他者に向かって話す口調で書きますよね。だから自分を一度客観視するという経過を取るような気がします。どういう構成で、どういう伝え方で、というアウトプットの仕方を、書きたい内容を一度把握した上で考える。これはいまのわたしにとても必要なことだと思うのです。

 キーワードは「自分の世界を保つ」と「客観視」だ!止まってしまった思考を取り戻そう。

2015年3月22日日曜日

3.思考


 たとえばヒトラー。歴史上みて最も残忍な悪だったといろんな人は言うのだろうが、そもそも悪ってなんなのさ、それは悪い事なのか?
 「悪い」、それは起きてしまった後にきっとつけられる価値だろう。そして悪いことが起きたあとに良いという価値が反対側に生成される。なぜなら、人の歴史はすごく簡単に見ると、振り切っては反対側にまた振り切るの繰り返しをして少しづつ進んでいるように思えるから。
 今という現在は、過去の上に成り立っている。わたしたちは、過去に起きたことを全面的には否定できない。それは悪もしかり。否定してしまえば現在も否定するということと同等だと思う。そしてそれは、「善」という価値観さえも否定することになるだろう。どんなに残忍なことでも、そのおかげで今がこうして存在しているのならば、わたしたちは過去に起きた「悪」と一般的に言われそして嫌悪される出来事も認めなければならない。認めた上で、そこから学べばよいと思うのです。